ハコフグ

私と両親の住む家のはす向かいにハコフグが越してきた。

 そいつは建物の中で暮らしているわけではない。名前の通りに箱のような体を敷地いっぱいに踏ん張って立っている。ハコフグが建っているとでもいえそうだ。青と黄色の浮かれたような体色はこの閑静な住宅街ではモノクロ写真に絵の具を垂らしたみたいに場違いだ。

 

 ハコフグは律儀だ。

引っ越してきたその日にそばを持ってうちに挨拶をした。家の前の道路にみっちりとはまって、感情の読めない洞の目玉でこちらを見ていた。ハコフグはしゃべらない。だからそばを玄関先に投下すると、そのまま、体に対して小さすぎる冗談みたいなひれを動かしてはす向かいの空き地に戻っていった。

私が学校に行くとき、ハコフグホバリングをするみたいに浮き上がって歯をガチガチと鳴らす。多分挨拶だろうと思う。軽く会釈をしてから前を通り過ぎるのが私の毎朝の習慣になっていた。

 

突然学校が休みになったある月曜日に、テレビが世界の終わりを告げた。

なんでも、あと一週間で大きな星が地球にぶつかって、終わるらしい。色々な国のたくさんの研究者たちや、政治家たちが策を練ってみたもののどうしようもないということで、満を持しての発表だそうだ。

父さんと母さんはすぐに休みを取って家に帰ってきた。私たち三人は抱き合って泣いた。高校生にもなって親に抱きしめられるのは、こんな時だけれどすこし照れ臭かった。父さんの腕の筋張っているのも、母さんの手が水仕事でがさついているのも変わらない。変わらないから、滅びるというのは嘘なんだと思う。

それから買い出しに出かけた。世界が終わるなら水も食料も店からなくなってしまうだろうから。 

 道路はもう車でいっぱいだったので、歩いて買い物に行った。スーパーもホームセンターも、人でごった返していた。私たちはテーマパークの行列みたいなレジに一時間弱も並んでやっとの思いで帰宅した。ハコフグは町の様子もテレビも知らないようで、能天気にホバリングをして歯を鳴らしている。

 

一週間というのはあっという間だ。この二日間は母さんと二人で外からの衝突音や怒号、電気のない真っ暗な夜が遠くの大火事で赤く染まるのにおびえて暮らしていた。父さんは水を補充しに行ってから帰ってこない。テレビもラジオも新聞も終わってしまったし、携帯もつながらないので父さんにまた会えるかはわからない。泣き疲れた。いつ父さんは帰ってくるのだろう、腫れた目で窓の外を、ほかの人に見つからないように、こっそり覗く。父さんはまだ帰らない。視界の隅のハコフグはひれをゆらゆらと動かしていた。その動きがあまりにもゆっくりで、あざ笑われているようで、腹が立った。

もう終わるなら、このむかつく魚を殴ろうと思った。

母さんが寝ているのをいいことに、午前二時、私は外に出る。珍しく空は澄んでいて、ちりばめられた星の間を縫うように光の線が無数に走っていた。どこかでまた、ガラスと鉄のひしゃげる音がする。住民のいなくなった家々の間に私の足音は乱暴に反響した。

ハコフグは空き地に建っていた。無表情な目で私を認めると、そいつはひれを器用に動かしてホバリングをするみたいに浮き上がって歯をガチガチと鳴らした。全て日常が壊れてしまえばまだ楽だったのに、中途半端に取り残してあるのが許せなかった。悔しくて、やるせなくて、目の前が歪んで青と黄色の浮かれた模様がどろりと溶けた。やり場のない悲しさを振りかぶって私はハコフグの横っ腹を殴りつけた。

 手ごたえはなかった。

ハコフグの外見に見合った弾力も感じることなく、でたらめに振り回した私のこぶしは行き場を失う。するとハコフグのフグという割には平面的な腹に腕が吸い込まれていく。ズブリズブリとハコフグに私は溶けだしていく。気温と同じ肉の温度にいら立ちも悲しみも霧散してしまう。

 

ハコフグは洞のような眼玉をひと回転させると垂直に浮き上がった。地表が炎に包まれる一寸前だった。赤く燃え上がる星においてその体表の青と黄色はのんきに場違いに見えた。

 

おわり。