日常

ガス台の上のケトルがけたたましく、湯が沸いたと騒ぎ立てる。

ゴムが伸び切ったスウェットの尻を掻きながら振り向きもせずに火を止める。マグカップにはインスタントコーヒー。乾いた粉末からは何のにおいもせず、退屈な百円均一のマグカップは眠気を加速させる。ガラスの瓶の中にはほんの少ししか残されていない。今度買ってこないとな、とつぶやくのは何度目だろうか。
湯が勢いよくカップに注がれていく。途端にコーヒーの香りが湯気となって立ち上る。朝だった。
コーヒーを無為にかき混ぜている間、冷蔵庫を覗く。白い庫内には干からびた葉物野菜と空の牛乳パックがしんと静まり返っていた。墓場だ。低くうなる駆動音は冷気が逃げたためかあるいはこの散々な状況への文句だろうか。見なかったことにして扉を閉める。コーヒーが時計回りに渦を巻く。

時間。一日を24の塊に区切り、60で分割したその単位を人類が失ってからどれくらいになるだろうか。今でも日が昇りやがて夜が来る。それを繰り返している。繰り返しているだけで、積み重ねることはできない。朝起きて、眠る。時間に関する言葉を失っただけだったはずが、いつのまにかその言葉が指し示していたそのものまでをもなくしてしまう結果に落ち着いた。数えられない朝を迎え、老いて死んでいく。それが人間であった。

窓のすぐ近くの枝に小鳥が止まっていた。時間に依存していたシステムの障害による事故、はたまた食中毒、精神異常などで人間が減った結果、野生動物たちが勢力を増してきている。自然に回帰しているのだ、どこかで工業的に生産されたコーヒーをすすってふと思う。コンクリートを割り破って木々が生い茂るようになったのは。このアパートの部屋に蔦が侵食してきたのは。記録する言葉も、数える術も持たない。

赤く錆びた階段を下って外に出る。下から数えて三段目は朽ちて抜けているので気を付ける。
近所にある食料品店は満開の藤に覆われていた。悪い傾向だ。買い物をするうえで大切になるのは嗅覚と勘。しかし藤の甘い香りは嗅覚を鈍らせる。この花が枯れるまでは生ものは買わないほうがいいだろう。斜めに傾いだスチール棚からインスタントコーヒーを選ぶ。それから米。重くなるので買うのはそれだけにする。

電波塔にも藤の花が絡みついている。似たような色にライトアップされた姿を見たことがあるような気がした。河原では鹿が草を食んでいる。長閑だ。腹が減ったから早く帰ろう。