夢の缶詰

実家を建て替えるということで、長い間放ったらかしにしていた自室を掃除しに帰ってきた。
幸いなことに家を出るときにほとんど片付けてあった。だからやることといえば棚にしまってある本をまとめたり、わずかに残る幼い時分の宝物を始末するくらいで、わざわざ電車と船に一日中揺られてまで来る必要はなかったと思う。思うだけで後悔はしない。久しぶりに見る父の顔も、母が張り切って用意してくれた好物の筑前煮も嬉しいものだ。

ここまで使用感のある机は貰い手がないし粗大ごみに出すらしい。さあ、運ぶぞと持ち上げるとなにやら中に何かが入っている。
落書きとシールに塗れた学習机の引き出しは建付けが悪い。レールが歪んでいるのだろう。幼いころから使っているこの机の、その引き出しは滅多に使ってこなかった。とはいえ小学生のころとは筋力が違う。少し力を籠めればあれほど私を困らせた引き出しはあっけなく口を開けた。


銀色の缶詰がひとつ、四角い引き出しの空間にポツリと転がっている。
これは「夢の缶詰」だ。

小学校に入るか入らないかの頃だった。
実家から車で3時間ほど南に行くと小さな町に着く。家族でその町にある祖父母を訪れるのが長期休暇のお決まりで、缶詰を手に入れたのもいつかの夏休みだ。

母方の実家であるその家は、おそらく本家と呼ばれるようなものだったのだと思う。子供にとっては長い道のりのあと、退屈から逃れられると勇んで家に足を踏み入れると、見覚えのあるような無いような親戚たちが口々に「大きくなったねえ」と話しかけてくる。半年前は獣のように四つん這いで闊歩し噛みついてきた従弟がだいぶ人間らしくなっている。遠い親戚の高校生のお姉さんが煎餅をくれる。なかなかに賑やかな家だった。

引っ込み思案でものぐさな子供だったので、いつも和室の仏壇の前で絵をかいたり本を読んだり、溜めに溜めた宿題をしたりしていた。
子供は子供と遊ぶべきかもしれない、しかしどうにもトンボを追いかけたり、テレビの周りに密集してゲームをしたりする気分にはなれないのだから仕方がない。彼らのはしゃぐ声を遠くに聞きつつ湿ったような線香の残り香を嗅いでいた。

子供とは遊ばなかったが、代わりに大人がよく構ってくれた。
「夢の缶詰」をくれた三郎伯父さんもその大人の一人だ。彼は今になって思えば偏屈な人間だった。30を過ぎても恋人の一人も連れてくる様子はなく、他の親戚たちとはあまり関わらずに縁側で本を読んでいる。祖父母の家の本棚に収まる本の多くは三郎伯父さんが昔買い集めたものらしい。彼の蔵書には随分お世話になった。旅人を食らう料理店も、一人ぼっちの竜と少年の冒険もその埃塗れの棚で出会った。
三郎伯父さんは本を読み終わったのを見かけると、いくつか質問をする。それは内容についてだったり、全く関係のない難しいことについてだったりする。きっと感想が聞きたかったのだろう、しかし幼い子供相手に地獄に差し伸べられる蜘蛛の糸は正しいかと尋ねても答えられる訳がないだろう。勝手な大人だった。

ある日、三郎伯父さんは銀色の缶詰を持ってきた。
「これは夢の缶詰だよ」
彼は言う。何が入っていると思う?
全く訳が分からない。キャラメル、蟹、金平糖、どこかの空気、考えられる限りの素敵な内容物を挙げたが違うらしい。
「君が、入っていたならいいなと思うものが入っている」
よく分からなかった。が、元々妄想が好きだったのでそれからは仏壇の前に寝っ転がって、銀色の缶詰に何を詰め込むかを考えるようになった。

まずは大きなケーキ。それから寿司に餃子。小さいものから詰め込んで、調子がつかめてきた。いいなと思うものならなんでも缶詰にできるような力を付けた。いつでも泳ぐことのできる海に、世界中の本が集まる図書館、窓に色とりどりのガラスのはまった飴細工の街並み、そこにある家には家族が毎日笑顔で暮らしていて、去年死んでしまったパグのゴン太だって生きている。
夢の缶詰を手に入れたその夏休みは、そうやって理想を缶に詰め込んでは三郎伯父さんに報告して過ごした。伯父さんが一番興味を示したのは、大きな図書館を詰めた時だったと思う。蝉の声の縁側で居間の賑わいを背中に受けて二人で図書館にある本や、建物について話したのは退屈ではなかった。


現在目の前にある「夢の缶詰」を開けてみようと思う。
中身が夢だなんて信じてはいないし、腐っていようと残念ではない。昔の夢を見返してみようという好奇心で私は缶切りを握り、ギコギコと外周をなぞる。

やはりあっけない。
乾パンが詰まっていた。幼いころの思い出も、夢もすべてパサパサと味気ないものだった。