虚像と社交

こんばんは。

クトゥルフ『狂気山脈』が終わりました。
楽しかったです。また機会があれば参加させていただければ、と強く思いました。
それくらい楽しかったです。

人付き合いについてです。
私は社交の重要さを分かっているつもりです。人間は社会を築いて生存するという戦略をとっている動物だからです。群れになじまなければ生き残ることはできない。だからでしょうか、人間である私は人とのかかわりを不得意としつつも人と関わらなければ不安を覚えてしまいます。不便なものですね。

多くのTRPGは、社交を必要とします。私の知る限りでは全てのそれが社交を必要とし、社交を楽しむためのものです。
私は社交がいろいろな意味で得意ではありません。必要性を知っているけれど、上手ではないし好んでもいない。それでもTRPGは面白いと感じました。
それはなぜか。
おそらく、ロールプレイが鍵になっているのではないでしょうか。
ロールプレイとは、ある役割にそってキャラクターを演じるという行為です。クトゥルフ神話TRPGでは、プレイヤーたちは自分で考えたキャラクターを演じます。ロールプレイの中で普段は言えない願望を仮託したり、現実よりも自分らしく振舞ったり、社交の中心人物となるような行動をとったりすることができます。
そのロールプレイの何が良いかというと、キャラクターというワンクッションを挟んで人間と触れ合うことができる点です。
生の人間は恐ろしいです。彼らと関わるということは常に評価と判断を下され、また同様にこちらからも評価と判断を下すということです。気の休まることがありません。生身の自分で評価の茨を突き進むこと、それが恐ろしいのです。
しかし架空のキャラクターを挟むことでその評価はマイルドになります。刺さっても、刺してもさほど痛くないだろう。生身よりはずっとマシに違いない。そういったある種の油断が安心感を誘います。そしてキャラクターという巨象を通して相手の人となりを推測することもできます。
虚構は素晴らしいです。
それが現実でなくとも、熱中させ勇気を与え現実を共に歩んでくれます。そんな虚構を現実に生きている人間たちと力を合わせて作り上げることを可能とするTRPGが本当に大好きです。緊張して前日はよく眠れなくなりますが、それに見合う心理的な利益があると感じました。

とりあえず、運が良くてよかったです。
サイコロの出目に振り回されて、その遠心力が楽しい二日間でした。