本をたくさん買うこと・詭弁

こんばんは。

今日はすごく涼しくて、寝坊をしました。夜中に風が強くて起きてしまったけれどそれでも寝苦しくない夜というのは貴重で、よく眠れ過ぎてしまいました。
このままの天気で毎日が進んでいけばいいのに、と強く思います。

本をたくさん注文しました。
またです。だいたいふた月に一回くらいでしょうか、本が欲しくなります。今回は論理パラドクスとか功利主義の本です。詳しくは知りませんが、なんとなく気になったので買ってしまいました。もしかしたら読んで「これ違うな」となるかもしれませんが、それはそれでいいです。求めているものと違うことが分かったという収穫があります。
私はずっと自分に収集癖があるとは思って来なかったのですが、これは言い逃れができませんね。気になるものは手元に揃えたい。立派な収集癖です。驚きました。
本が手元にあると安心します。
いつでも参照できる知識があって、いつでも新しいものを探し求めに行くことができるからです。知らない分野の本も、親しみのある分野の本もどちらも好きです。好奇心を満たしてくれるし、どんな場所でも心落ち着ける空間にしてくれます。
本はいくら買っても許されていると思っている節があるので、これからも集め続けることでしょう。本を買っても無駄遣いと怒られることのない環境で育ってきました。ありがたいことです。
床が抜けてしまわないように気を付けます。

これは昨日の続きなのですが、食事を共にすることの社会的な意義というものがあります。
人間同士が共に飲食すると、仲間意識のようなものが芽生えるようです。それを私は経験的に知っているのですが、不思議なことですよね。
食事という無防備な瞬間を晒すことでいわゆる好感度のようなものが上がるというのは、納得できます。犬が腹を見せたり、サルがグルーミングしあったりするのとたぶん似ているのでしょう。
その効果を経験から知っているのが不思議です。
よく「おまえは人の気持ちが分からない」と言われるのですが、食事を共にすることの意義を自分の経験から知ることのできる私はどちらかというと「人の気持ちが分かる」ほうなのではないでしょうか。こんな、食事でもたらされる好意というのは少しのものでしょう。それを感じ取ることができるのは繊細な機微を解すると考えてもいい気がします。
といっても相手の気持ちなんて分かるわけないですけどね。「人の気持ちが分かる」というのは、人の気持ちが分かったような行動をできるということを表す慣用的表現です。
詭弁かもしれません。それすらよく分からない。