論理パズルvs曖昧な私

こんばんは。

今日も雨です。夏の雨はいいですね。豪快です。災害になるのはごめんですが、たまにはこういう日があると個人的にうれしいです。こうも涼しい日が続くと灼熱の晴天が懐かしくなりますが、騙されてはいけません。涼しい方がいいに決まっている。

論理学パズルの本を読んでいます。『論理パラドクス』という本です。全然わかりません。わからないけど、おもしろいです。このまま分からないなりに読み進めて行けば、もしかしたら論理的な思考が身につくのかもしれませんね。
日常的に使われる論理と、論理クイズを解くのに使われる論理は、種類が違うように感じます。私の日常に現れる論理が論理的でないという可能性はあります。そうなのかな。もしかしたらそうかもしれない。でも、論理的に考えて感情を排しようとするときに使う回路と、論理パズルを解くときに使う回路は違うような印象を受けました。この表現も論理的ではないので、私は私が思っている以上に非論理的人間なのかもしれません。パズル一個も解けないし。悔しいな。
私は生意気にも自分の知性に自信を持っているようですね。
人間の感情もよくわからなければ、論理的でもないとすると、一体全体なにが取り柄なのでしょうか。感覚? 感覚って感情に付随していないかな? 自分は感覚に優れているとも思えないし。優れたところなんてない、が正解かもしれません。

知性って何からできているのでしょうか。試しに要素を上げてみます。論理、合理、教養、知識、想像力とか? もしかしたら思いやりも含まれるかもしれません。私は、私が杖代わりにすがっている知性という言葉の意味すらよく分かっていない。
そんなもんなんでしょうかね。でも残念です。これがいかに難しい問題であろうとも、自分の好む言葉の意味くらいは自分で説明できるようになりたいです。
こんなに曖昧だから論理に弱いのかもしれません。
曖昧の良さもありますけどね。曖昧を曖昧のままにしておくと、処理速度が速くなります。曖昧からそのまま答えを出せる力はみんなに備わっているものだと思いますが、それはとても役に立つはずです。会話でいちいち論理的に、きっちり切り分けて、意味を精査して……なんてやっていたら日が暮れてしまいます。できないくせにそれをやろうとするから私は会話が下手なんだ。
なんてこった。