人生最後の日に何をするか

こんばんは。

今日も暑いです。風が少しあって助かりました。家に工事が入っていたので時間つぶしに散歩に出たら、保育園からシャボン玉が飛んできました。涼しげでいいですね。

今日も死生学の本を読み進めました。
他人事の死や、死についての過去の哲学はおもしろかったり、時に退屈だったりします。しかし、自分事の死は受け入れがたいです。
よく、「今日が人生最後の日だったらどうしたいですか」というような質問がありますよね。あれに答えられない。人生最後に飲みたいものは決まっているのですけどね。水道水。未練が残らないようにしたいです。未練や後悔が残るのがとても恐ろしい。だから、人生最後に何もしたくないです。大切な人と過ごしたら死にたくなくなってしまうし、何かを選べば選ばなかったほうの選択肢について後悔しそうです。いつも通りに過ごして、淡々と、死の実感がないままに死にたいです。死を特別なものにすると怖いので、流れてくるまま受け取って、そのまま自分も一緒に流されていきたい。「人はいずれ死ぬ」と言いう当たり前をそこより掘り下げないで、自分も当たり前として死ぬのが理想です。
でも本当にそれでいいのでしょうか。
生きているからにはよりよくあろうとすることが義務であるように思えるのです。よりよくあるということはよりよい生を送るということです。生きることは死ぬことともいえるので、私がそれを義務ととらえている限り、よりよい死を迎えることも義務であるはずです。
よりよい死とはなんでしょうか。死ぬまいと足掻くことでしょうか。それとも死を受容して迎える穏やかなものでしょうか。「より」よいのですから、何か比較対象があるはずなのですが、死は一回きりですね。よりよくあろうとし続けた生の終着点としての死なら、よりよい死と言えるかもしれません。
自分でよりよくあろうと選んだ選択肢なら後悔しないで済みますか。そんな訳はない。たぶん、後悔も包摂した満足というものがあるはずです。「これがいい」ではなく「これでいい」のほうが幸せな時だってあります。人生を「これでいい」と受け入れられたときによりよい死があるのかもしれません。
どうやら私は納得して生きていきたいみたいです。
人生最後の日に焦って何かをしようとするより、人生最後の日に向けて毎日を生きた方がいいようですね。