待たなくてもいいのに

寂れた駅のホームは待合室もなく、じめじめとした寒さが骨まで沁みるようだ。
星も見えない夜の深さを黄色く変色した時計だけが観測する。一人ベンチに腰掛ける影の待つ電車はしばらく来ないらしい。傾いた蛍光灯が焦げ付くような音で明滅する。

 

時計の針が半周したころ、ひしゃげたアナウンスに導かれて一本の電車が到着した。
影は顔を上げる。それの待つ列車はまだ来ない。降りてくる乗客が視界に入る。

影の隣に少年が座る。こんな夜更けにどうしたのだろうか。影はいぶかしむ。もしくは心配になった、少年に声をかけるべきか否か。影の尻はなんだか落ち着かなくなった。自分の黒い足先と、少年の色とりどりの薄汚れたスニーカーの間を視線が右往左往する。

 

「自転車で隣の町まで行った」
少年が口を開く。
自転車に乗って行けるところまで行こうと思った。いつも行く公園までの道のその向こうへ。知らないものばかりが続いていた。冒険するのはいつだって楽しい。道はどこまでも続いていた。猫が塀の上から見ていた。しばらく行くと砂利の道になって進むのが難しくなった。田んぼの真ん中の道の先には黒い街が見えて、空が赤くなった。あの町まで行こう、ペダルを踏み続けた。どんどん近くなる未知の世界にわくわくした。砂利にハンドルを取られる。それでも進み切った。カラスが鳴いた。夕日で赤くなった町についた。知らない町に知らない子供の声が響いていた。どこからかカレーのにおいがした。家の光がオレンジ色をしていて、急に寂しくなった。振り返ると青く沈んだ黒い海になっていた。怖くなった。僕は迷子になっていた。冒険は終わったのだ。

 

影の視線は足先をさまよい続ける。少年の意図が分からない。
決まりの悪い沈黙が尻の底から這い上り、時計の針が重力に負けたように音を立てる。

 

学校にいる友達がおもしろい。
家の近所の雑草は植え込みのが一番おいしい。
木登りが一番上手なのは誰か決めようとして救急車に乗ることになった。
テストで100点を取った。
給食の一番おいしいメニューはシチューに決まっている。
お母さんに叱られたけれど理由は覚えていない。
擦りむいた膝には風呂が酷くしみた。
自由研究で貝殻を集めて賞をもらった。
図工の時間にふざけていたら彫刻刀で指を切ったら血がいっぱい出てびっくりした。
明日の天気を靴で占うと大体当てることができる。
ブランコから飛び降りるのは楽しかった。
砂場には秘密の宝物が埋めてある。
学校のヤギがなついていてかわいかった。
博物館の恐竜が大きくて実はこわいと思った。

明日は何をしよう。その次の明日は、次の次は。

 

ホームに連なっていく少年の言葉はひどく影を揺さぶった。手のひらや足の裏がじんとして、不定形のもやが胸に詰まったような気がする。影はうつむいたまま、もやの端を手繰り寄せようとした。

 

少年は話し続ける。
中学校に入って親友ができた。隣の学区の小学校から来たやつでいつも本ばかり読んでいて変だった。だけど宿泊研修で同じ部屋になってから話すと面白いのに気づいて、それから何となく一緒にいるようになった。
三年生の夏、部活動の引退試合があった。この日のために毎日練習してきたのだ。色々な課題や問題を乗り越えてここまで来たんだ。負けるわけがないと思っていた。負けるわけにはいかなかった。
合格発表の日は雪が降っていた。赤くなった鼻の頭を見られたくなくて足早にその場を後にした。
宿題が多くて間に合わなくなってきた。
うまくいかないことが多くなってきた。
親友との連絡も少なくなってきた。あいつの学校の友達と仲良くやっているのだろう。
滑り止めの大学に潜り込んだはいいが友人ができない。周りがバカばかりで嫌気がさす。どうしてこうも騒ぎ立てられるのだろう。理解に苦しむ。
こんな所で腐っていくくらいならいっそ、しかし踏み切ることができないまま水で薄めたようなつまらない日々を送ってしまっている。

苦しかった。
冷たいホームで言葉はひび割れていく。崩れそうな思い出は影のものだった。影は顔を上げる。きっとそこに映るのは影自身だ。
しかし少年はもはやそこにいなかった。彼の姿はスイッチを切るよりたやすく消えてしまう。その足元には一枚の切符が残されていた。

 

アナウンスが響く。影は落ちている切符を握ると暖かな車両に乗り込む。ベルの音に押し出されるようにして電車は朝焼けのほうへと流れていった。